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第五話  猫座の女
  30歳を前後してホントに忙しかった時代があった。 世の中がバブルの時期だったから、生業であった広告の仕事の注文が殺到し、寝るヒマのないほぼ2〜3年間が続いた。 コピーライターとして純広告の雑誌・新聞・ポスターなど華やかな仕事とは別に、カタログやパンフレットなどの大量の仕事の山にも埋もれた。 フリーランスを続けた僕がこの時期だけ、真剣に事務所の法人化を考えた。 知人に誘われるまま青山に共同で事務所を借りたのもそんな時だった。
  誰から紹介されたのか、もっとひどいことに名前さえも忘れてしまったが、 当時ほんの2カ月ほど若い女性をアシスタントに置いたことがあった。京都あたりから上京して来たばかりで、仕事の経験も何もない。 ただコピーライターになりたいと言う、何か事情がありそうな風情のなかなか美しい女性だった。 麝香(じゃこう)のような強烈な臭いをさせているのが気になったが、それが採用のための媚薬になったのかどうか、今となっては思い出せない。 友人で僕と同世代の男のコピーライターにもスタッフとして手助けしてもらっていたし、事務所の共同出資者も男だったから、 少々華やぎが欲しかっただけなのかも知れなかった。最初に、未経験の彼女に手助けしてもらえるような仕事はないだろうし、 ただ原稿運びと電話番だけのつまらない仕事になるかも知れない、給料と言ったって僕が出せるのはこの程度だ、などと宣告した。 即座に彼女が、給料は週払いにして欲しい、ついでにいくらか前払いもいただきたいと要求してきた。
  本当に、僕にしてみれば値段の高い猫を買う(あるいは飼う)気になったも同然だった。 案の定、彼女にできそうな仕事はなく、電話番さえも機敏な別の誰かがさっさと受話器を取ってしまうので、 それこそ彼女の存在理由は僕らスタッフが全員打ち合わせなどで出掛けた時の留守番だけなのであった。 事務所に僕がいる間中、僕の背後であの独特の臭いをさせながら、何か難しそうな演劇論だったか映画論のような本を読み耽っていた。 「お茶出しもしない」とクレームを付けてきたのは共同出資者だったが、彼女は僕のスタッフだし、 お茶ぐらい自分で入れるべきだと言ったため、僕とその男との関係にもギクシャクした空気が流れ始めた。 それでも数週間もすると、何もしないけれどただそこにいるだけの彼女の存在が不思議ではなくなった気分になった。
  ある夜、打ち合わせ先から事務所に帰った僕を待ち受けていたのは共同出資者の男で、 その口から驚くようなセリフがこぼれるのだった。
「あの泥棒猫、やっぱりマズいよ。電話代、これだよ。さっき僕が帰った時もどこかに長電話していたようだし」
  事務所の維持費を折半していた彼が手にしていたのは電話の利用明細で 、確かにそれはちょっと法外で他の誰も心当たりのない利用額だった。 明日、ちょっと問い質してみるからと返事をした翌日から、ふっつりと彼女の姿はなくなった。
  履歴も何も知らない、現住所や連絡先さえも聞かなかった僕の落ち度は認めるけれど、 なぜだか不思議な「猫座の女」に遭遇した気分だったことだけは確かだ。
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