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第三話  夜ごとの来訪者
  およそ2年前に愛猫を亡くし、 まだペットロス症候群の渦中にいた去年の春先のことだった。 ある夜、食卓近くにいた僕にワイフが声をひそめて告げるのだった。
「ねえ、ベランダに大きいけれどちょと汚れた猫が来てるわよ」
  僕はいろめきだち、その時ばかりは俊敏にしかし足音を立てない細心の注意を払ってベランダの様子が見えるワイフの仕事部屋に入っていった。 見ると、鉢植えや使わなくなった椅子などが放置された乱雑な物陰に、 茶色ブチのどう見てもお世辞にも奇麗と言えない大柄な猫が身を低くして潜んでいた。 僕は慎重に引き戸から顔を出してみた。目と目があった。その距離およそ2メートル。 アパートは1階だから、猫は瞬時にベランダのすき間から逃げ出せるので、案外悠然としているのだった。 おい、と声を掛けた。ああ、猫に声を掛けるなんて、なんと久しぶりの悦楽だろうと心が躍った。反応はない。
  冷蔵庫まで戻って来ると、僕はアレコレ物色し、ベーコンを一切れ持ち出して再び猫と顔を合わせた。 寝そべるように姿勢を低くして、顔の前でベーコンをブラブラとさせ、彼女の気を惹こうとした。 彼女!!?? そう、あれは彼女のはずだった。ナリは汚いのに、かなりのベッピンさんで、瞳を覗くとまだ若いムスメのはずだった。
  さて、僕にはあらかじめインプットされた何事もなかった。自分でも驚くようなセリフが不意に口をついて出た。
「おいで、ミネルヴァ。さあ、こっち、こっち」
  その夜、結局ミネルヴァは僕の手からベーコンを食べることなく、 数分後に何か外の物音に驚いてベランダを去っていった。
  僕が野良猫に瞬時につけたミネルヴァという名前が、家族の間で話題になった。 アレはホントに雌猫だったのか、どうしてそんな大仰な名前が出てきたのか、などということだった。 その時、僕に思い当たるフシは何もなかった。
  後になって、ミネルヴァの来歴を調べた。ローマ神話の美と知恵の女神とあった。 それまで、そんなことは知らなかった。 ただ、ミネルヴァの肖像に1セットになって登場するふくろうがいて、確かにあの猫の毛色はふくろうを彷彿とさせるのだった。
  しばらくの間、夜ごとミネルヴァのベランダ訪問が続いた。 ベーコンをハムに替えたり、もっと猫の好きそうな食材をちらつかせても、 「ミネルヴァ、おいで」という僕の誘いには決して応じない。 家族から「呼ばれる名前が大げさで気に入らないんだ」と冗談を言われ、ある晩「ハナちゃん」と呼んでみた。 目の前でハムを食べてくれたのだった。
  残念ながら、その後ふっつりと姿を消してしまったが。
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